平和について考えたことのメモ

平和について考えたこと。


聖トマス大學の平和展というのに行ってきた。
http://www.st.thomas.ac.jp/thomas/heiwaten.php
写真、映像、体験談、遺品、
小さい頃からウンザリするくらいにいろいろな機会に触れてきた。
おかげで、ぼくが「平和」という言葉を聞いたときに、まず連想するのは、ヒロシマナガサキである。


先日の比叡山宗教サミットの折(http://www.tendai.or.jp/summit/)。
ボスニアの子供達が平和というテーマで絵を描いた。
学校で勉強をしている様子や、異民族の人々が手をつないでいる様子。
どれもこれも平和というイメージに相応しいけれど、
自分とこの子供達との間にある「違い」を意識しないではいれなかった。
ボスニアでは、ついこの間までの民族紛争によって、それぞれの民族の間に深い溝が出来てしまったという。


平和ということを考えるとき、
そのどこに力点が置かれるのかは文脈依存的である。


平和という概念は、
絶対普遍の真理などという類ではなく、
人類による大いなる反省の産物である(と思う)。


言い換えれば、
ぼくたちは「争いによる不幸」について理解するという方法でしか、
平和ということについて知ることができない。


先に述べたとおり、
平和というのはある意味で文脈依存的である。
その文脈とは、例えば争いによる不幸の「経験」である。


だからこそ、
ぼくたちが自らが背負う文脈について自覚的であることには、
大いなる意義があると思う。


文脈を背負うことなしに、平和を語りかけることはできない。
日本には日本の文脈がある。


かといって、それがすなわち
「日本人ならヒロシマナガサキについて深く知らなければならない」
という事にはならない。
そんなものは自由である。
余計なお世話ですらある。



けれど、
その文脈を背負うことができるのは、
その文脈の中に生きる者だけである。

アメリカにはアメリカの文脈があり、
イラクにはイラクの文脈があり、
ムスリムにはムスリムの文脈が、
政治家には政治家の文脈が、

ある。


この地球の上で、
日本という文脈を背負える人間が、
いったいどれだけいるだろうか。