国宝とならぶ意味


東福寺の国宝、竜吟庵が公開されている。
室町時代から現存する方丈の四辺に現代アート枯山水が配されている。
なんと贅沢な……
東福寺には、もうひとつ重森三玲作の八相庭園が大変に有名だが、上掲の竜吟庵はそれとはまた別のもの。


重森は、庭園の研究家でもあり(むしろそっちの評価の方が本来は高いのではと思う)、江戸中期以降に芸術性の高い‘庭’が作られていないことに憂いを感じていたらしいが、この作品が彼の中でどういった位置づけであったのかが今のぼくには解らない。
どう考えても、伝統的な石庭が持っている味わい深さとは対極にあるように感じられてならない。ぼくなんかが指摘するまでもなく、日本庭園の思想は自然に対する畏敬の念のようなものが根っこにあるに違いないが、この竜吟庵の庭ではそんなものは何も問題にならず、ただひたすらに表題的だ(としか感じられなかった)。
多分、コンセプチュアルなわけでもない。
例えば竜安寺の石庭とは異質のものだとおもう。


そう見せかけて実は、もっと深い眼差しがあるのかもしれないけれど。
これはこれとして素晴らしいのだけれど、
自分の中でどう処理していいか解らず困ってしまった。
今までぼくが石庭だとおもっていたモノとの連続性が感じられない、
ということの戸惑いなのだ。


あ、そういえば、最近、
禅の思想ってコンセプチュアル・アート的なんだってことに気がついた。
竜安寺の石庭も、源光庵の丸窓も。
そう考えると、二十世紀、ポストモダニズムな潮流の中で、禅や東洋思想が注目を集めてきた背景についてすんなり説明できる気がする。