小林秀雄「モオツァルト・無常という事 」


モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)


なんつう名文だ。
感動した。
内容にというよりも、文章そのものの佇まいに。
もちろん、内容も味わい深い。
小林秀雄の講演会のCDがずっと前から欲しいが(しかも最近もゆるりとリリースされ続けているが)、常に赤貧の為購入の踏ん切りがつかない。図書館も取り寄せてくんない(涙)。会計士受かったら絶対に大人買いしてやる。

 美は人を沈黙させるとはよく言われることだが、このことを徹底して考えている人は、意外に少いものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言語も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語らうとする衝動を抑えがたく、しかも、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪へるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである。
 美と呼ぼうが思想と呼ぼうが、要するに優れた芸術作品が表現する一種言い難い或ものは、その作品固有の様式と離す事が出来ない。これも亦およそ芸術を語るものの常識であり、あらゆる芸術に通ずる原理だとさえ言えるのだが、この原理が、現代に於いて、どの様な危険に曝されているかに注意する人も意外に少ない。注意しても無駄だという事になってしまったのかも知れない。
 明確な形もなく意味もない音の組み合わせの上に建てられた音楽という建築は、この原理を明示するに最適な、殆ど模範的な芸術と言えるのだが、この芸術も、今日では、和声組織という骨組みの解体により、群がる思想や感情や心理の干渉を受けて、無数の風穴を開けられ、僅かに、感官を麻痺させる様な効果の上に揺らいでいる有様である。音を正当に語るものは音しかないという心理はもはや単純すぎて(実は深すぎるのだが)、人々を立ち止まらせる力がない。音楽さえもう沈黙を表現するのに失敗している今日、他の芸術にうちて何を言おうか。
 例えば、風俗を描写しようと心理を告白しようと或いは何を主張し何を批判しようと、そういう解り切った事は、それだけでは何の事でもない、ほんの手段に過ぎない、そういうものが相寄り、相集り、要するに数十万語を費やして、一つの沈黙を表現するのが目的だ、と覚悟した小説家、又、例えば、実証とか論証という言葉に引摺られては編み出す、あれこれの思想、言いかえれば相手を論破し説得する事によって僅かに生を保つ様な思想に飽き果てて、思想そのものの表現を目指すに至った思想家、そういう怪物達は現代にはもはやいないのである。真らしいものが美しいものに取って代った、詮ずるところそういう事の結果であろうか。それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないのかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となり終った。p21
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