小林秀雄「モオツァルト・無常という事 」(2)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

ゲオンがこれをtristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一言で言われたように思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海のにおいの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。p45


小林秀雄モーツァルト弦楽五重奏第四番を指して「疾走する悲しみ」と表現したことはあまりに有名で、これは音楽評論におけるひとつの事件として語り継がれ、今となってはモーツァルトの音楽が語られる時の何回かに一回は目耳にする有様だが、ぼく達がこの事件性について取り戻す事は(戦後期の時代性を取り戻せない事と同じように)もうきっとできない。
ただ、できないなりに推し量る努力はしたい。
モーツァルトを語る上で最も権威付けされているかもしれないこの言葉は、そもそも、本文中にもあるように、ヘンリ・ゲオンからの引用にすぎない。単純に考えるならば、この言葉は小林秀雄ではなくゲオンの言葉として語られるべきだろう。
つまり、この「モオツァルト」稿の事件性というのは、この有名すぎるレトリックの秀逸さからのみ導かれたりはしない。
モーツァルトの音楽は確かに悲しいかもしれない。けれど、それを発見したのが小林秀雄だというわけではなく、又、もしそうだったとしてもそんな事に価値はないのだ。

美は人を沈黙させるとはよく言われることだが、このことを徹底して考えている人は、意外に少いものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言語も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語らうとする衝動を抑えがたく、しかも、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪へるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである。


昨日も引用したが、この名文は、何度載せても過剰ということはない。
美に対する愛しみ深さ、そして、それでもなお書かれた「モオツァルト」という稿。
そのことの中に感じられる研ぎ澄まされた何かを、ぼく達は嗅ぎ取らなければならないはずだ。言葉を語り継ぐ為には、その程度の真摯さは必要だと思う。