ドイツの経営者、職場での禁煙求めた従業員を解雇

[ベルリン 9日 ロイター] ドイツにある従業員数10人のコンピューター会社の経営者が、職場での禁煙を求めた部下3人を、秩序を乱す恐れがあるとして解雇した。ビューズムにあるこの会社の経営者がハンブルクの地元紙に語った。

 記事によると、同経営者は「たばこを吸いながらの方が仕事がしやすい。それに最近はみんな喫煙者をいじめるから、その仕返しだ。これからは喫煙者だけを雇用する」などと述べた。

 同国では今月1日にレストランや酒場での喫煙禁止令が施行されたが、小規模な事業所での喫煙は許されている。

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-29690720080110


なんだこりゃ。
こんな理由で解雇できるんですかね。ドイツではOKなのか。
この場合、KYなのは経営者なのか解雇された従業員なのか。


「お前はKYだ」と指摘する発言者になれるのは共同体の中での強者又はは多数派ということになるのだろうけれど、会社という小さい共同体の中では経営者(上司)が権力者だったとしても、その共同体の枠組みを社会全体に拡大すると結果が逆転する事はありうる。
日本ならこのケース、経営者に分が悪いでしょう。流石に。


以下、KYについて書く。
KYな人は共同体の中で通常は組織的努力によって、かつ自然に淘汰されていくものだと思う(というよりも、KYという発想事態が淘汰のベクトルを帯びている)、その主体となるのは誰なのかという問題は、その者が所属する共同体の線引きをどこでするのかという問題と同義になる。
ある共同体の中の権力者は(自分が強者でいるこのとできる)現在のその線引きを守ろうとするインセンティブがあるので、結果、閉鎖的なたちの悪い雰囲気が醸成される事はままあるし、そんな光景は探せば身近にもけっこうある。
けれど、純真さ故のKYというのは、ときとしてその閉塞を壊す改革者であり得るはずで、その両極性を受け入れる素直さを僕達は持っていたい。童話の「裸の王様」での、KYな仕立て屋のエピソードは幼年期からのぼくの倫理観根っこにあるモデルケースの一つだけれど、「KY」なんて流行語の背景にある「何か」はきっとこういう倫理観を無視する。
「裸の王様」は「むしろKYであれ」という訓話であるし、ああいう大臣や王様になっちゃだめよ、という教訓だったはずなのに。


「空気を読め」という言葉はけっこうキツイ言葉なので、発言する側もそれなりに気を使う必要があるケースはままある。どのように「空気を読め」と伝えるのかも空気を読まなければならない。けれどだからこそ、『「空気を読め」と発言する事自体に気を付けないといけない』という前提が「空気を読め」という言葉の質と内容を担保する。
けれど「KY」と換言してしまったとき、この発言者側のハードルはきっと消えている。「KY」という記号の、異様さはこの点にあるように思う。というよりも、そのハードルを取っ払う為の発明が「KY」なのだと思う。
なんの躊躇もなく「お前空気読めないよ」と言えてしまってはいけないはずだ。それが常識だ。
そして、「KY」を発明した人達は、きっとそんな常識について熟知している。だからこその「KY」なのだ。


こういう流行語を指して、「言葉が乱れている」と評する人がいる。でも、それは違うと思う。乱れているのは言葉ではない。もし乱れているとするならば、それはもっと他の「何か」だ。
何故ならば、「KY」という語彙の発明は、言葉に対する敏感さが背景にあるはずだと思うからだ。既存の語彙に対する不足感からしか、新しい語彙は生まれないのではないだろうか。
こういったTVのコメンテーターの安易な発言は、問題の本質を隠していると、常々感じている。


KYについて最近考えていた事をメモがてら徒然かきました。
たいしたことは書いてませんが。
さあ、べんきょーべんきょー。


ちゃんとしたKY論はこちら。
宮台真司http://www.miyadai.com/index.php?itemid=598
内田樹http://blog.tatsuru.com/2008/01/05_1559.php