昨日のシンポジウムから考えたことをメモしたい。


加藤先生の話のなかで、
専門職集団の歴史的な成り立ちについての話がでていた。
西欧では、ギルドとよばれる専門家組織があって、
そのちからは、国家より(歴史が)永く、国家よりも広かった(国境を越えていた)という。


(ぼくは詳しくはないのだけれど、ギルドというコミュニティは、西欧社会の歴史の中で長い間、産業を支えていた職能集団で、大学universityなんかもギルドの延長線上にでてきた制度であったはず。
ギルトについてwikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%89


加藤先生によると、西欧において、このような専門職集団が社会を牽引する役割を担っていたという。
国家がギルトの顔色を伺っていたような、そんな時代もあったらしい。国家が専門家集団を管理下に置くという体制ではなかった。ギルトの方が国家よりも歴史が古いのだから、そりゃあそうだ、という話。
その分野において、専門職集団は社会を牽引するし、規範については完全に自己規制によってルールを決めていた。
影響力とともに(程度は分からないけれど)権力を携え、高い倫理観を求められた存在であった。
社会制度の中で主体的であった、と言い換えることもできると思う。
このような、ギルトの在り方についての話は、とても示唆的であると感じた。


で、この辺の話が、西欧の背負っているものと日本の背負っているものとの違いとして挙げられるとのこと。
温度差があるという感じなのだと思う。
日本という国が採用している制度は、概して、海外から輸入した仕組みがほとんどで、つまり西欧とは順番が反対で、専門家集団が国家の管理下にあるという特徴がある。
例えば日本の証券取引監視委員会は米国の証券取引委員会を参考にしているけれど、日本の証取委員は、その権限や果たしている役割からいって、米国の10分の1程度であるとのこと。
先生によると、村上ファンドの件なんかは、事後的にぐじぐじ言っているようじゃ駄目らしい。
たしかに、判決が出た現在においても、制度的なあいまいさが多くの専門家から指摘されているところだ。


会計の分野では、会計基準の作成についての話が有名だ。
日本はつい最近まで、主に公的機関(企業会計審議会)が会計基準を作っていたが、官から民へという声が高まって、主体が民間である企業会計基準委員会に移行してきた歴史がある。
いまwikipediaを参照したところ、
国際的調和の観点から、諸外国と同様に民間による会計基準の設定を望む声が強くなり
民間に移ったとのこと。
予備校の先生の説明だと、
海外から「日本はまだ国主体で会計やってんのかよ。遅れてんな」と批判されたから
民間に移ったそうだ。


しかし、上述の内容を踏まえるならば、予備校の先生のお話なんかはちと認識が甘いといえるのかもしれない。
そういった事象の背景にあるのは専門家集団というものの在り方の根本的な違いなのではないだろうか。
足りないのはプロ意識、或いは職業倫理というものに対する問題意識そのものなのではないか。
日本が構造的に抱えているともいえるそういった性質について、もっと重く受け止めなければならないのではないか。


西欧諸国との温度差、背負っているものの違いについて自覚することはとりわけ重要であると思う。
うまく言語化できないのだけれど、この、自明のもとして背負っている価値観の違い、とでもいうべきか。
例えば一般的に言われている「官から民へ」というような言説についても、そういった視点を踏まえたならば、また違った議論になるだろうと思う。



(加藤先生は、この辺の話については触り程度にしか話されていません。
個人的に興味深かったので広げて書きました。言い回しなんかも私流にかなり翻訳してます。文責はわたしにあります。)