最初は「ヴォイス」というトピックから入った。
これはもう何度も書いていることだけれど、「ヴォイス」というのは文体のことではないし、バルトの言う「エクリチュール」とも違う。
自分の発する言葉と自分自身の「齟齬」を感知する力のことである。
というふうに書くと、「言いたいこと」と「それを言葉にしたもの」のあいだの乖離をどう埋めるかという問題設定にすり替わって、「自分の言いたいことを十全に表現できる自分らしい言葉を見出す」という、文章修業の話になってしまうが、私が考えているのはもう少し説明しにくい話である。
文章を書く。ある程度書いたあと、それを読み直す。
すると、ところどころ「これは違う」という箇所に出会う。
形容詞のなじみが悪い。主語の位置の落ち着きがわるい。読点がないほうがいい。「しかし」が二回続いている。最後に「ね」があるのがべたついて不快だ・・・というふうに、私たちは自分自身の文章を「添削」している。
だが、このとき添削している私と書いた私はどういう関係にあるのか。
そもそも何を規範として添削を行っているのか。
「美文」というような基準ではない(そんなものは存在しない)。
私が添削しているときに準拠している規範は「自分がいいたいこと」である。
けれどもそれは書かれた文章に先行して存在していたわけではない。
添削するという当の行為を通じて(大理石の中から彫像が現れてくるように)、しだいにその輪郭をあらわにしてくるのである。
「自分がいいたいこと」という理想は、書くことを通じて、現に書かれたことは「それではない」という否定形を媒介して、あらゆる否定の彼方の無限消失点のようなものとしてしか確定されないのである。
まず「言いたいこと」があり、それを運搬する「言葉」がある。「言葉」というヴィークルの性能を向上させれば、「言いたいこと」がすらすらと言えるようになる。というのが通常の「文章修業」の論理である。
しかし、「言いたいこと」というのは、言葉に先行して存在するわけではない。それは書かれた言葉が「おのれの意を尽くしていない」という隔靴掻痒感の事後的効果として立ち上がるのである。
「ヴォイス」というのはいわばこの「隔靴掻痒感」のことである。
この隔靴掻痒感そのものを言語に載せることができれば、言葉は無限に紡がれる。
「言いたいこと」がもし単体として存在するなら、きわめて巧妙に言葉を使える書き手の場合、ある時点で「言いたいこと」が底をついてしまうだろう。
言葉が無限に紡がれるというのは、牛がよだれを繰るように、同じ調子の文章がだらだら書き継がれるということではない。
そうではなくて、ある一つのことを語ろうとしたときに、その「こと」がとても簡単な言葉では言い尽くせないので、その「こと」のさまざまな層に分け入り、その「こと」がいったん文脈を変えると、どういうふうな意味の変化を遂げるかを吟味する・・・というような作業のことである。
だから言葉を無限にあやつる人というのは、うっかりすると、わずか一つの言葉から小説一本分のコンテンツを引き出すような芸当ができる。

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